猫とシュークリーム

タイトルは筋肉少女帯の「カーネーション・リインカーネーション」から。

名前をつけるということとその重さ

「名前」は一つの呪いであると思う。オカルトな話ではなく、ごく一般的な感覚と、現象についての考えだ。

ヒトでも猫でも橋でも川でも事象でも、名前を付けられたその時から「何者(何物)でもない」という自由を奪われる。名付けられた呼び名により存在を認識され、繰り返し呼ばれる名前は持ち主にずんずん降り積もる。その言葉の持つ見えない重さに縛られ続ける。名付けられた側も、名付けた者も。おそらく、その存在が消えたその後まで。

 古くは筆名(ペンネーム)を付けることによって、本来の名前とその名のもとに蓄積されたあれこれと一時的に距離を置くことに成功した。以前、ハリーポッターの作者が別名義で作品を世に送り出したところ、いわゆる「中の人」が誰であるかを明かされて…という話は興味深い。

最近知った事実に、“久石譲”がペンネーム(広義)であったというものがある。幼少期、彼の音楽以前にその名前の字面と響きに興味を持っていた。名前の持つ魅力によって、音楽がより価値を高めているとさえ感じていた。その名前が、造られたものであると知った時に少なからず驚きと少しの落胆を憶えたものだ。
そんなふうに、どうしたわけか名前について思いを巡らせることが多い。

 このブログを始めるにあたって、10年以上使っていたペンネームとは別の名前を名乗ることにした。

10年来の名前は、10年の間にあまりに重いものになった。とある人から拝借していたその名前は、数年前、本来の持ち主を喪った。彼はあまりに若くして姿を消した。名乗ること、名前を借りることがどんな意味を持つのか、10年前は知らなかった。

ここで綴る出来事や考えはノンフィクションに限定していくつもりだ。
創作の場で名乗っていた彼の名前は一旦休ませてあげることにしたい。
實川(さねかわ)というペンネームのうち一文字は、本名が由来している。また、私の友人が、とある機会に「実川」の名をくれたことも嬉しい偶然だった。

 聴いたことはないのだが、「名前をつけてやる」という曲がある。そのタイトルを目にした時に、かすかなおそろしさを感じたものだ。そう言いながら、この文章を書く傍では、「模様が鶉に似ているから」というだけで「うずら」と名付けられてしまったキジトラの飼い猫がこちらをじっと見つめている。